映画「おばあちゃんが伝えたかったこと~カンボジア・トゥノル・ロ村の物語」のチラシと映画のオープニングで使用する先付けを作成しました。
山形国際ドキュメンタリー映画祭2013でコミュニティシネマ賞を受賞したこの作品は、カンボジアのクメール・ルージュを体験した村人たちについてのドキュメンタリーです。映画制作のワークショップを通して、自分たちの過去・経験を再構築していく過程が描かれます。
以下、すこし長いですが、山形国際ドキュメンタリー映画祭でのエラ監督のインタビュー。とてもとても良いインタビューです。
【監督からの声】
参加型映画制作の挑戦
─『何があったのか、知りたい(知ってほしい)』[1]について
エラ・プリーセ(映画監督)
トゥノル・ロ村に到着し、当地で暮らす人々にこの映画のプロジェクトへの積極的な参加の提案を持ちかけたとき、こうした共同制作の作業がいかなる方向へ向かうかについて、私たちがなんらかのプランを事前に想定しておくようなことはしなかった。「参加」というのは実際、カンボジアのこれまでの経緯からすると、まったくの新しい概念だった。プロジェクトにかかわる(カンボジア国内外の)NGO から派遣され共に仕事をすることになった仲間たちも、私たちが村人たちの主導でプロジェクトを進めたいと本気で考えているという事実に戸惑っていた。しかし、自身とその同胞が過去から救済される助けとなるような映画とはどのようなものなのか─ それを私たちに語るのは、「彼ら」であるべきなのだ。
村人たちからの最初の反応として、自分たちの家族が殺戮されたときの出来事を再構成してみたい、という意見がいくつか寄せられた。ヌ・ヴァと私は当初これには懐疑的で、悲劇的な出来事を再演することの困難と、そこに含まれる可能性、とりわけトラウマが回帰する危険性があることについてはよく分かっていた。しかし、その喪失の瞬間、具体的には愛する人が連れ去られ死に追いやられたそのときの状況こそが、省みられ、取り組まれるべきものであると指摘する生き残りの人々は後を絶たず、その数は増えていくばかりだった。現在の暮らしぶりからはほとんど伺い知ることができないが、彼らは、その出来事が起こったまさにその瞬間というべきものにある具体的な形を与えることを望んだのだ。このような試みを行うことを好機と捉えるべきなのか、正当性はあるのか、あるいは危険ではないのかと、なおも疑念が満ちあふれるままではあったが、それでも私たちはここで悟った─ それをする機会を、私たちは与えなければならない。
私が参加するということの意味は、可能な解を探る討論会を誰でも参加できるようにする─ 議論の整理や調整はするかもしれないが─のが私だということである。この映画の主役となるべき人々、この場合、クメール・ルージュの虐殺を生き延びた人々のことであるが、彼らはここで、参加するかどうか、あるいはどのようなかたちで参加するのかを決めていく。私は「もたらす」側、「提起する」側の人間で、それゆえこの関係性の中では力をもつ立場にあることは分かっているし、そのことは忘れないようにしているつもりだ。けれども、状況によって与えられたこの権限の少なくともいくらかを手放してもいいと私が言ったなら、その権限はみんなで共有し、誰もが使えるものであってほしい。私にはまた、リスクを受け入れた責任をとる必要がある─ 制作過程の開始点であった自分が、その過程で私たち全員がどこへ向かうことになるのか、知らずにいたのだから。
ともあれ、私たちはやることにした。
数日もすると、生存者たちが大勢集まって、処刑場面の再演を始めていた。誰がどの役を演じるか、その場面はどこで行われるか、あるいは見え方はどのようにすべきなのかということは、自発的に決められていた。なんと力強く、なんと感動的なことだろう! この場面とそこに至るまでの道程が、映画の核となる部分である。しかしながら、この過程におけるあるひとつの局面は、それほどたやすく飲み込めるものではない。準備を進めているあいだ、人々はみな(本当に)その作業を楽しんでいた。はじめに彼らが専心していたのは、ここで演じられる当の人々がどこでどのようにクメール・ルージュに連れ去られたのかについて、話し合うことだった。その後、武器などの小道具や、ポル・ポト派の軍服風の衣装を探し始め、それらを使って当地の若者に仮装させたそのとき、彼らは、いや私たち全員が気付いたのだ─ 「本物のクメール・ルージュ」に似ている、と。この状況をユーモラスであるとする感性が優位になったその瞬間、突如として全員が、老いも若きも、私たちも、その誰もが笑い出したのだ[2]。自分の背中をまず悪寒が走り、それから心の中にこんな考えが駆け巡ったことを覚えている─「これは、きわめて危険な状態なのではないだろうか?」─ その通り、あるいは少なくとも、その通りかもしれない。しかし、まさにこの瞬間の笑いは、集団的解放の一形態、古代ギリシャで言うところのカタルシスであった。あるトラウマ的瞬間を、まったくの非─ トラウマ的な枠組みにおいて、あるいはまたそこから距離をとり、それをより無害なものにすべくユーモアを用いて再現する行為であった。30 年の時を経てここに集い、笑いながら誰もがこう言うのだ─こんなことはありえない。ここでは、いまでは、もうこれ以上。 (中村真人訳)
[1]本作品は、カンボジアのある村で、クメール・ルージュ体制を生き延びた人々とその周囲の人々とともに行われた、自己治療と過去との和解のプロセスを記録したものである。そもそもの始まりは、カンボジア国内、また欧米各国から集められた心理学者、NGO 職員、映画作家で編成されたチームによる参加型実習であった。筆者は、このプロジェクトにおいて芸術監督を務めている。
[2]これは映画の中で明白なかたちで現れている要素ではない。というのも、撮影後の編集段階で作品を観ながら私たちとディスカッションをしていたカンボジア人の仲間が、この場面は誤解を招きかねず、外の世界に対し、誤った村の人々のイメージを与えかねないという懸念を示したからだ。それゆえ最終的に、私たちはこの場面を映画に含めないことにした。
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